万葉集のまとめ

万葉集を大まかにまとめてみました。

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万葉集の時代区分について

万葉集の成立は759年から780年とされている。

歌が最初に詠まれた時代は仁徳天皇の時代(西暦300年頃)まで遡る。
この時に詠った歌人は磐姫皇后になる。

とはいえ、この歌人の歌が西暦何年に作られた歌かは不明。(勿論、磐姫皇后はいたと思われるが、歌は後に誰かの創作と思われることもあり、この辺りもわかっていない。)

次の時代の歌が雄略天皇で万葉集の巻頭を飾る最初の1首となるが、次の歌の第1巻2番歌は、舒明天皇(593-641)の歌まで、約150年ほどのブランクとなる。

それから大化の改新(645年)後の、斉明天皇(斉明天皇は皇極天皇と同一人物。一度退位して、再度即位した。このことを重祚という。)の頃になると歌が賑やかになる。

つまり、「大化の改新」以降に歌を楽しむ文化が生まれ、それより前にあった歌として、磐姫皇后の歌や雄略天皇の歌をまとめたということになり、1つの歌集にするということから、後の万葉集として成立していったと考えられる。

最後の歌は大伴家持の4516番歌であり、天平宝字3年(759年)の作となる。

これらのことから、万葉集が収録された時代は、645年~759年(一部古い歌あり。)でおよそ100年ぐらいの歌集だということになる。

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万葉集の歴史的な概要

国外と国内の2つにわけました。

国外

大化の改新以降は律令制が本格化し、飛躍的に政治を強化していく時代でもあった。

万葉集時代(奈良時代前後)の日本は、中国や朝鮮からの法律や身分制度を真似て作ったもので、それなりに国として機能していたと思うのだが、地方はまだまだ他民族のような部落も多く、小競り合いもあった。(これが後に律令国として整備されていく。)

そんな中、親密だった百済が滅び、新羅が朝鮮半島を統一。日本は百済に加担していたため、敗戦を理由に唐が攻めてくると思われていた。防人はその防衛隊として、太宰府に配備された。これが万葉集にも収録されている防人の歌となる。

その後、国力を強めていった新羅と不仲となり、深刻な国際的危機に直面した。(第15巻で遣新羅使の出発から帰宅までの歌が物語のように収録されているが、この時新羅へ向かった阿倍継麻呂(737年)たちは、外交官としての扱いすら受けず、結局帰国することになった。)

国内

国内は天皇支配による日本統一も曖昧な状態で、北は蝦夷(えにし)と呼ばれる民族たち(アイヌではない。)との抗争、南は隼人(はやと)と呼ばれる熊襲一族(ヤマトタケルの時代から対立していた一族)を支持する部族と対立している時代だった。

百済が滅亡した660年ごろ、こうした部族や豪族たちと危機感を共有し、支配階級から団結融和として国防力の増強を図っていった。当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を早急に整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、天皇へ権力が集中することになった。

ところが、すべての豪族や民族たちが受け入れたわけでもない。それが蝦夷と隼人というわけである。

万葉集の最北歌は福島県であり、律令国前は東北以降を陸奥(みちのく、むつ)とされ、言わば未開地の状態だった。さらにその奥が出羽国(でわのくに)と言い、万葉集の終歌以降(759年以降)に整備されていく。

つまり、陸奥国守(国司の四等官の中で最上ランク。ここでは福島県の県長のようなもの。)が、蝦夷の動きを見ながら福島以降の東北の行政をすべて兼任して行うというものだった。

一方、隼人は警戒状態だった

日本をいくつかの県(国)に分けて、各地に官吏(もしくは豪族)を置いて国を管理していくというシステムを作った。この時に記録に残された地名などは、今でも使われている。

万葉集の時代は、この中国から取り入れた律令制によって地方区画を行った律令国が整備された事が、最も大きい。

また、「壬申の乱」という内戦が起こった時代でもある。

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