橘諸兄が書いた万葉集についてまとめました。
掲載数 全 7 首
歌番号 | 本歌 |
第6巻1025番歌 | 奥まへて我れを思へる我が背子は千年五百年ありこせぬかも |
第17巻3922番歌 | 降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか |
第19巻4270番歌 | 葎延ふ賎しき宿も大君の座さむと知らば玉敷かましを |
第20巻4447番歌 | 賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに |
第20巻4448番歌 | あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ |
第20巻4454番歌 | 高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪 |
第20巻4455番歌 | あかねさす昼は田賜びてぬばたまの夜のいとまに摘める芹これ |
橘諸兄とは?
橘諸兄(読み:たちばなもろえ)
西暦684年から754年。官位正一位、左大臣。今で言うところの内閣総理大臣のような立場にあたる。かなりの権力者ではあったものの、子や孫がここまで出世することは無かった。理由として、勢力争い絶えなかったことが考えられる。まず、橘家は皇族の血縁ではない。母三千代も「県犬養」という大和朝廷時代の豪族の繋がりであり、宮廷の女官として働いていた。とはいうものの、三千代は当時天皇の道が約束されていた軽皇子(文武天皇)の乳母を担当したことがきっかけなのか、軽皇子の母にあたる元明天皇にはとても気に入られていた。その元明天皇に賜った名が「橘」である。
「あんた、母ちゃんはこの「橘」を元明天皇様から授かったんだよ。決して絶やすんじゃないよ。」
と言われたのかどうかは謎ではあるが、当時諸兄は母三千代が藤原不比等と再婚したため、立場上藤原一族ではあったようだが橘の名を名乗ることを望んでいた。転機が訪れたのは西暦736年のころで順調に出世を重ねて従三位。52歳にして橘の名を名乗ることが許された。翌年の西暦737年になると、天然痘が大流行し、中央の権力者であった藤原四兄弟をはじめ、有力者たちが次々と死去してしまう。この時に白羽の矢が立ったのが諸兄である。
諸兄は学者の吉備真備はじめ、僧の玄昉、武人の大野東人、公卿の巨勢奈弖麻呂と大伴牛養らを仲間として固めた。また彼らは皇族や藤原一族では無かったので、「素質さえあれば出世できる。」ような存在でもあった。
これで国政は諸兄が担当することとなり、左大臣橘諸兄政権が誕生した。
しかし、これを良しと思わない者もいた。後の右大臣にあたる藤原仲麻呂である。
仲麻呂は天然痘で死去した藤原四兄弟の南家「藤原武智麻呂」の次男。つまり、諸兄が中央政権から追い出した藤原一族の一人であり、いつか諸兄を追い出そうと対抗意識を燃やしていた。仲麻呂は諸兄政権内で着実に出世していき、右大臣に昇格まですると、諸兄と対抗するようになった。
西暦743年この頃になると、藤原一族も以前と同じくらいまで勢力がもどり、光明皇后を盾にして仲麻呂の発言力が強くなる。
当時の官位は従四位だったが、748年のわずか5年で正三位という極めて異例な急速出世をする。
西暦755年。聖武上皇の体調が悪く、次の天皇はだれか?という話が持ち上がっていた。
ある時、諸兄は息子の橘奈良麻呂邸で酒宴を行い、不用意に聖武上皇の話を持ち出す。
この時に何をしゃべったかが明らかではないのだが、「聖武上皇に謀反を企てるおつもりか。」という話になるほど、諸兄が失言をしたという事になってしまった。
上皇はこの話をまともに取り合わなかったが、諸兄は責任を感じて翌年756年に左大臣を辞職した。
次の年の757年の一月。諸兄はこの世を去る。